古典を読む会
「古典を読む会」のメンバーで11月半ば、平家ゆかりの地、嵯峨野をたずねることになった。
杉野先生は「平家物語」にでてくる嵯峨野周辺の資料を参加者に配ってくださった。
当日、9:30 阪急嵐山駅に降り立つと、しとしとと冷たい雨が降っていた。大堰川にかかる
嵐山のシンボル渡月橋を渡る。向こうの山々は秋雨に煙っていた。靄がかかり、川面には
みやこ鳥がいて、幽玄の世界。渡月橋から北へのびる道を行くと賑やかな街並み。ここを抜
けると静かな山里が広がる。嵯峨野のスポット竹林のトンネルを歩く。延々と連なる壮大な
竹林の中の長い路。「この道はお友達とよく歩く道なのフフ・・」とトミコさん。「きっとステキな
人なのねえ・・」楽しいおしゃべりをしながらの野宮神社に着いた。
黒い、ちょっと雰囲気の違う鳥居の神社。この鳥居は黒木鳥居といって、くぬぎの木の樹皮の
ついたままの木を使用している。日本最古の鳥居の様式。この鳥居をくぐると小柴垣が廻らされ
いる。源氏物語にも登場するこの神社は伊勢神宮の斎宮に選ばれた皇女が身を清めるために
一年間こもった宮。中に入ると美しい苔の絨毯。雨の後のためか、緑色もみずみずしい。
清らかな緑である。
「源氏物語」では六条御息所と娘の斎宮の伊勢書下向が近づいた9月初旬、光源氏は野宮に
御息所を訪ねた。(先生の資料から)
野の宮の黒木の鳥居傾ぶきて
秋風寒し下嵯峨の里 尾上柴舟
現在では「縁結び」のイメージが強いが、紀子さまがお参りにこられてお子様が授かってから「子宝」
としても名高くなった。進学や商売繁盛とバージョンアップして、多角的にご利益があると入り口
でもらったパンフレットにも書いてあった。
祇王寺は今回の目的のひとつ。
嵯峨野一帯は王朝の昔から貴族達の」別荘地や狩猟場として、社交の場であると同時に
失意の人たちの隠棲の地であったがここ、祇王寺もそのひとつである。(先生の資料から)
平氏全盛の頃、思いっきりわがままな平清盛と4人の尼の物語である。
その頃、都に聞こえた白拍子の上手に祇王、祇女という姉妹がいた。
姉の祇王を入道(清盛)最愛せられければ妹の祇女をも世の人もてなすことかぎりなし。
母とじにもよき家つくりてとらせ、毎月百石百貫をぞおくられける。(平家物語から)
三年経ったとき、加賀の国の者で仏御前とよばれる白拍子の上手が現れる。清盛ははじめ、門前払い
をしたが祇王のとりなしで仏御前に面会する。仏御前は清盛にすげなくされて、すでに出ようとしていたが
「けふの見参あるまじかりつるを祇王があまり申しすすむるあひだ、かように見参しつ。
今様ひとつ歌えかし」と清盛にいわれて歌う。
君をはじめてみるときは
千代も経ぬべしひめ小松
おまへの池なる亀岡に
鶴こそむれてあそぶめれ
仏御前はみめかたちはすぐれ、声もよく、節も上手。舞も思いも及ばないほどうまかった。
「入道相国、舞にめで給ひて仏に心を移されけり」となる。
「折角、清盛が会わないと言ったのに、祇王はあほやねえ」と誰かがいう。わたしもそう思う。
あっという間に仏御前に心を移された清盛は祇王に「とくとくまかりいでよ」とすげない。
冷たく出て行けと言われて祇王は
もえいずる枯るるも同じ野べの草いづれか秋にあはではつべき
と障子に泣く泣く書きつけ、出ていく決心をする。当時の白拍子は美しく、歌、踊りに優れているだけ
でなく教養も高い と杉野先生は言われた。
毎月送られてきていた百石百貫も早、とどめられて、祇王はわが身の上の変化を
思うにつけも哀しく涙の日々でその年も暮れた。春になって、清盛は祇王に
「仏御前が退屈しているから舞を舞って仏をなぐさめよ」という使者をよこす。
「清盛さんそれはないでしょう」とわたしは言いたい。清盛のデリカシーのない申し出でに
祇王は何度も断ったが、清盛の権力と母の哀願にさからえず、西八条に行く。
仏も昔は凡夫なり
われらもついにはほとけなり
いづれも仏性具せる身を
へだつるのみこそかなしけれ
と歌い舞った。並み居る諸臣も感涙を流したという。
「かくて都にあるならば、また憂き目をも見んずらん。今は都のうちを出でん」とて
祇王二十一にて尼になり、嵯峨の奥なる山里に、柴のいおりを引き結び、念仏して
ぞいたりける。(平家物語から)
妹の祇女十九、母刀自四十五の母子三人が念仏していると ほとほとと竹の網戸を
叩くものがある。思いもかけぬ仏御前であった。「あなたがおひまを出されたのを見る
につけても、いつかは自分のことになるであろうと思って」と被っていた衣を打ちのけると
剃髪した尼の姿であった。仏御前は聡明な女性である。四人一所に籠もって、みな往生
の本懐を遂げた とある。
「嵯峨の奥なる山里」の庵というのは往生院であったといわれるが、のちに4人の
尼の物語にちなんで祇王寺と名付けられた(先生の資料から)
祇王寺の中は仏間と大きな窓のある控えの間があった。清盛、祇王、仏御前の物語を
解説したエンドレステープが流れている。
仏壇の中央が大日如来、向かって左側に中央から清盛、祇王、祇王の母刀自、右側には
祇女、仏御前の木像が安置されている。入道清盛の像はさすが良心がとがめるのか(?)
柱の影にかくれている。祇王の像のお顔は整っていらっしゃる。仏御前のお顔は白く剥が
れていた。立ち去りがたく、暫くそこで留まっていた。
苔むした庭一面に紅葉が敷き詰められた様子は風情があった。裏手には墓地があり、祇王
祇女、母刀自の三墓と清盛の供養塔がある。鎌倉時代の作とされている。
落ち葉を踏んで祇王寺を出て南隣にある滝口寺を訪ねる。
滝口寺
平重盛の家臣、斉藤時頼は建礼門院の雑仕 横笛に恋するが、身分の違いに父の許しが
得られず出家する。彼が滝口入道と号して往生院で修行していると知った横笛は入道を訪
ねてくるが滝口は仏に仕える身であるとして会わなかった。横笛は悲しみのあまり大堰川
に身を投げた、とも出家したとも伝えられる。本堂には二人の像が安置され、門前に横笛
の歌を刻んだ碑がある。寺は昭和初期に滝口寺とされた。(先生の資料から)
いつも祇王寺には来ていたが、滝口寺は初めて。紅葉が美しく、横にさいている山茶花もきれい。
「あだしの庵」で昼食。湯豆腐が温かくて美味しい。嵯峨名物「森嘉」のお豆腐をつかってるとか。
落柿舎
芭蕉の高弟 向井去来の閑居跡である。落柿舎の由来は、ある年の秋、庵の柿を立ち木ご
と一貫文で商人に売ったところ、40本の実が一夜にして全部落ちたことによる。芭蕉は3
度訪問したし、高弟たちも出入りし、元禄俳諧の大道場であった。落柿舎には蓑と笠がかけ
てある。蓑と笠がかけてあったら庵主在庵、なければ不在を意味したとか(先生の資料から)
芭蕉が「嵯峨日記」をここで書いたのは47歳のとき、去来は当時41歳である。
去来の墓が落柿舎の裏の竹藪にあり、全長40cmほどの石にただ「去来」と2字のみ彫ってある。
後人の建てた供養塔といわれている。
凡そ天下に去来ほどの小さき墓に参りけり 高浜虚子
の歌碑があった。同じ落柿舎の裏側に西行法師の井戸の址があって傍らに西行の歌碑があった。
牡鹿なく小倉の山のすそ近みただ独りすむわが心かな 西行
平安末期を生きた西行も嵯峨野に庵を構えていた。
常寂光寺
日蓮宗の古刹。小倉山の中腹の閑寂の地にあり、さながら常寂光土の感があるというので
寺名となった。苔むした仁王門をくぐり、石段を登りつめると眼下に京の街並みが広がる。
今は嵯峨野で一番の紅葉の名所とされている。ここの紅葉は色づき方が異なるように植えて
あって真っ赤や黄色、黄緑、緑色と色合いの豊かさは感動ものだ。
常寂光寺から渡月橋に向かって竹林を歩く。細い道でもクルマや人力車が次々通る。
「こんなに散策にいい道なのに歩けばよいのに・・クルマで通ってしまうなんて勿体無いわねえ」
大堰川の前にある「琴きき茶屋」で休憩。桜餅とあんころ餅をいただいた。
小督塚 琴きき橋跡(駒止橋ともいう)
渡月橋の北詰を少し行くと小督塚がある。高倉天皇の寵愛を受けた小督もまた清盛に迫害を
受けたひとりである。娘徳子の入内で、清盛は小督を疎ましく思う。
小督は清盛の圧迫を避けて嵯峨に身を隠した。源仲国は天皇の命を受け、彼女の行方を求
めて渡月橋のほとりまで来たところ、かすかに聞こえてくる「想夫恋」の琴の音をよりどこ
ろに小督の所在を突き止めた。小督は琴の名手であった。琴きき橋跡というのが渡月橋
北詰の車折神社御旅所前にあり小督を偲ぶよすがになっている。小督は連れ戻された
が、治承3年(1179)23歳で出家した。尚、小督塚には芭蕉も来ている。(先生の資料から)
琴きき橋跡に歌碑が建っていた。今まで何度もこの辺を歩いているのに知らないで通りすぎていた
一筋に雲いを恋うる琴の音にひかれて来にけん望月の駒
もう少し上流の方に歩いて右に折れると小督塚があった。宮廷一の美貌の持ち主、小督が琴を弾く
姿が目に浮かぶようである。高倉天皇との悲恋物語は平清盛の横暴を指摘した物語か・・?
嵯峨野の紅葉の中を歩いて、みんなは往時のロマンにひたる。